二つの特徴(1.地の粉「じのこ」と呼ばれる輪島にしか採れない土を使っていること。2.木地の破損しやすい部分に、布着せと呼ばれる、麻布を貼り付ける作業を行うこと。)を有する、石川県の輪島塗漆器。
地の粉(じのこ)
輪島塗の下地(したじ)作業に使われる珪藻土(けいそうど)の粉。左から鏡粉(一辺地粉)、二辺地粉、三辺地粉と、下地を塗り重ねるごとに、地の粉のきめを細かくしていく。
布着せの様子
米のりと漆を混ぜ合わせたものを布に浸み込ませ、布を漆器に張り付ける。
歴史
輪島での漆器生産の歴史は古く、平安時代(西暦1000年ごろ)の遺跡からも漆製品が発掘されている。現在のような輪島塗が作られるようになったのは江戸時代前期(1630年ごろ)。江戸時代の享保期(1716年から1736年)には、すでに今日の輪島塗と寸分かわらぬ工程で作られていた事が資料より確認できる。ただし、昭和以前の輪島塗は現在の高級美術品的なイメージのものではなく、豊かな旧家においてあらゆる冠婚葬祭(かんこんそうさい)で来客用に使用される堅牢な実用品として扱われていた。現在のような扱いとなったのは、冠婚葬祭が家の中で行われなくなったことに原因の一つがある。輪島塗の特徴である工程ごとの分業化(六職)、塗師による販売体制もこの時代に確立された。蒔絵、沈金といった代表的な加飾手法もそれぞれ江戸時代に輪島へと伝わり、明治以後に数々の名工を産むことになる。やがて明治維新により、大名・武家や公家の需要を失った京都、加賀などの漆器産地が大打撃を受ける一方、独自の生産、販売網をもっていた輪島塗は新興の富裕層への売り込みに成功し更なる発展を遂げた。それと共に輪島は加賀や京都から流れてきた職人を受入れ、装飾技術もこの時代に高度化していき、輪島塗は実用漆器としての堅牢(けんろう)さと美術品としての美しさを合わせもつこととなった。ここに究極の漆器、究極の家内制手工業(かないせいてこうぎょう)製品が誕生したのである。1975年に、輪島塗は国の伝統工芸品の指定を受け、以後多くの伝統工芸士が誕生している。
蒔絵の様子
江戸時代以来の高度な下地技術と、京蒔絵や加賀蒔絵の装飾技術が合わさって、輪島塗は究極の工芸作品となった。
特色
原料木はおもにアテ(ヒバ)。100を超える工程を経て完成される丈夫さ。壊れた塗物を修理することで再び使う事が出来る寿命の長さ。
なおしもん(修理)
塗師屋が販売先から傷んだ漆器をもちかえり修理する事。修理を行う事で漆器は半永久的に使う事が出来る。ひびなどならば上塗りを研ぎはがし、手入れをしたうえで上塗りをし直す、欠けている茶碗の場合は接合したうえで布着せからし直すなど、修理する必要の度合いにより製造工程をさかのぼって修理を行う。工程ごとに専門の職人がおり、ていねいな作業が行われている輪島塗だからこそこのような修理が可能となる。他産地の漆器を修理する場合もあるが、安い漆器の場合は輪島塗と比べ下地と漆の接着が弱いことが多く、修理の際に元の漆がはがれおちる場合があるなど、買った方が安く上がることもある。
分業制
輪島塗は工程ごとに専門の職人集団が存在し、それを塗師(ぬし)が取りまとめ、販売も行うという独特の分業制に支えられている。この体制は、全国各地から送られる、一件当たりの注文数はすくないがさまざまな種類におよぶ品物の注文を、素早く正確にこなすために発達したと考えられている。
職人技術や作品完成度の品質の高さから、「日本一の漆芸」と称される石川県の輪島塗漆器。ただ、日本各地には、輪島塗漆器以外にも、山中漆器、越前漆器、木曽漆器、会津漆器、琉球漆器、香川漆器、川連漆器、高岡漆器など、輪島塗漆器に追いつこうと日々研鑽を重ねている漆芸が数多く存在する。
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