概要
木や紙に漆(うるし)を塗り重ねて作る工芸品。完成までに細かく分けると30から40もの工程を経る必要があり、それらの工程の違いによってさまざまな種類の漆器が産み出されている。
漆とは
原料はウルシの木からとれる樹液で、この作業を漆掻き(うるしかき)と呼ぶ。現在、国産の漆の生産量はごくわずかで、大半を中国からの輸入に頼っている。
外国での漆器の認識
英語では漆器を「 japan 」と呼ぶように、欧米では漆器を日本の特産品であると認識している。西洋に日本の漆器が渡ったのは400年ほど前だと言われ、当時の王侯貴族(おうこうきぞく)を魅了した。
漆器の起源
中国の古代王朝、殷(いん)の遺跡から漆器の一部が見つかっていたので、漆器は中国で産まれ後に日本へと伝えられたと考えられてきた。しかし近年、北海道にある縄文時代(じょうもんじだい)の遺跡(9000年前のもの)から現在見つかっている中で世界最古の漆器が見つかり、日本の漆器は日本古来のものであることが確認された。その後、双方が互いに影響を受けあいながら現在の漆器が完成されたと考える事が出来る。
現存する世界最古の木造建築として知られる法隆寺(ほうりゅうじ)に納められた仏具「玉虫厨子(たまむしのずし)」は、古代の漆工芸を知る上で非常に貴重な資料でもある。玉虫厨子の側面には「捨身飼虎図(しゃしんしこず)」が描かれているが、これには密陀絵(みつだえ:油絵の一種)の技術と漆絵の技術が併用して用いられている。
漆器の歴史についての考察
現在生産されている漆器の源流をさかのぼると、多くは室町時代後期~江戸時代前期の範囲におさまる。この期間は長らく戦乱の世であったが、同時に二毛作などの技術が日本中に広まる事により、日本の農業生産力が向上した時代でもあった。
余剰となった作物を取引する場が必要になった関係上から商業が振興され、日本各地で市場経済が発達し、それが数多くの塗り物を生み出す原動力になったと考えられる(生産性の向上によって地方の大名が力を付けるにつれ、贈答品などの形を通して先進地域である京の漆器の技術が各地に伝わった事も漆器の発展に寄与している可能性がある)その中で、漆器はそれぞれ異なった二つのニーズを満たすため、
- 余裕のできた庶民の生活用品としての需要を満たすために産まれた実用性重視の漆器 = 輪島塗、山中塗、木曽漆器など
- 武家、公家といった上流階級の贈答品などの需要を満たすために産まれた美術工芸品としての漆器 = 京漆器、金沢漆器、琉球漆器など
の二つに分化した。そのうち後者は、美術工芸品として美しい装飾を行うための高い技術をもっていたが、明治維新以後に武家や公家が没落した事によってその需要が途絶え、現在では伝統的な製品はほぼ純粋な美術品としてのみ扱われている。
一方前者は後者のすぐれた美術的技法の導入、樹脂製漆器に代表される近代工業の手法の導入などさまざまな形で発展し現在に至る。
漆についての考察
漆器とかぶれ
漆の主成分はウルシオールという物質で、これは浸透性が強くウルシの樹液や精製された漆の塗料に直接触れると皮膚からウルシオールが浸入し、体が拒絶反応を起こす事で漆かぶれが引き起こされる(いわゆる一種の「アレルギー」である)。拒絶反応の度合いは人によって異なる為、漆かぶれには個人差が大きい。ただ数日間かゆいだけで済む人から、そこら中が腫れてできものが出来てしまう人までいる。完全に固化した漆器を触ってかぶれる心配はない。
漆の固化
「漆の乾燥」という言葉には誤解を生む可能性がある。なぜなら、漆は空気中の水分をとりこんで固くなるからである。より詳しく言えば、漆の中に存在する酵素「ラッカーゼ」が、水分の中にある酸素をとり込んで、ウルシオールがそれと反応してくっつきあい(重合)鎖状となったウルシオール(高分子)が絡み合う事によって固化するのである。固くする為の最良の条件は温度25度~30度、湿度が70%以上で、この条件は日本では梅雨時にあたる。この条件を他の季節でも再現する為、漆器を乾かす際には「漆風呂」「むろ」とよばれる専用の部屋を用いる。
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