概要
加飾(塗り物の上に絵を描く)の手法の一つ。漆器の表面に漆で絵や模様を描き、それが乾かないうちに金や銀の粉をふり蒔く(まく)手法。
歴史
蒔絵は日本古来の加飾の技術であり、その大元は奈良時代(710年~784年)までさかのぼる。平安時代には平蒔絵、研出蒔絵という基本的な技法が産まれ、鎌倉時代に完成された。また鎌倉時代には、模様を立体的に表現する高蒔絵の技術が産み出され、室町時代に完成された。やがてその美術品としての技術の成熟は江戸時代に頂点を見せるのである。それらの中でも地理的に輪島から近い産地は加賀蒔絵で、加賀藩三代藩主前田利常の代に京都や江戸から職人を招いたのが始まりとされる。以後、大名の印籠(いんろう)など、おもに武家を中心とした需要を満たしつつその技術は発展していった。
輪島に蒔絵の技法が伝わったのは文政期(1818年~1829年)のこと。会津の蒔絵師によって伝えられ、幕末に浜崎宗吉(はまざきそうきち)によって完成されたといわれる。当時、実用漆器であった輪島塗に豪華な蒔絵は必要とされておらず、明治維新まではその技術は重視されていなかったと思われる。しかし、維新後に武家や公家の需要を失った京都、江戸、尾張、加賀など華美な漆器を提供してきた産地は活力を失ってしまい、同時に蒔絵の技術も江戸時代の最盛期と比べ衰えてしまったが、輪島塗は塗師屋と各工程の職人による
独自の製造・販売形態をもっていたため、明治維新で新たに力をもった層への販売に成功し、それに伴って当時の先進地域である名古屋や金沢から蒔絵職人を輪島は受け入れ、蒔絵の技術は発展していった。
イナチュウ美術館が所蔵する「輝姫の婚礼調度品 蒔絵箱」
徳川家の依頼で数々の婚礼調度品を作った事で知られる江戸時代初期のお抱え蒔絵師、「十代 幸阿弥長重(こうあみちょうじゅう)」の作品。当時、大名や公家が娘を嫁がせる際はこのような調度品を持参させたが、それは結果として、地方の漆器産地への技術の伝搬に繋がったと考えられる。
具体的な手法
研ぎ出し蒔絵(とぎだしまきえ)
漆器の上に漆で文様を描いて、それが乾かないうちに金などの金属の粉をまいて乾かす。この状態を「蒔放し(まきはなし)」といい、その上でもう一度漆で薄く全面を塗り固め、よく乾かしたのちに木炭で研いで文様を出す手法。初めに完成された技法である。
平蒔絵(ひらまきえ)
漆で描いた文様に金属の粉をまくところまでは研ぎ出し蒔絵とおなじ。全面ではなく文様の部分だけを摺り漆で固めて乾かし、磨き上げる。
高蒔絵(たかまきえ)
平蒔絵の下を前もって漆や炭の粉、錫の粉などで盛り上げた立体的で華麗な手法。もっとも豪華絢爛な加飾方法。
イナチュウ美術館所蔵「硯箱 山水蒔絵」
荒々しい山肌をダイナミックに表現する為、高蒔絵が多用されている。
輪島塗の稲忠の Web サイトは、ユーザビリティを考慮し、どのようなインターネット環境でも見やすいよう、標準規格の「文字サイズ:中」にて各ページを作成しています。ただし、なかには文字を大きく表示し、閲覧をなされたい方々もいらっしゃると思われます。そのような皆様方のために、文字を大きく表示し、私達の Web サイトをご覧いただける方法をご紹介します。