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輪島塗漆器 稲忠の世界

塗商五十年
-稲垣忠右ェ門の歩んだ道-

3章 苦闘の時代

3-3 能登観光の黎明と水害受難

《克己が宿に帰ろうと、曽々木部落に近い断崖のトンネルにさしかかると、トンネルの闇の向こうから、明るいワンピースの娘が歩いてきた。鮎子であった。烈しい感情が沸き起こった二人は、どちらともなく近づいて、克己はしっかりと鮎子を抱きしめた》
 
昭和三十一年十一月二〜四日に行われた『忘却の花びら』の東宝映画ロケは、輪島市の東部にある曽々木海岸を中心に行われた。当時人気ナンバー1放送作家の菊田一夫原作によるラジオ番組の映画化であった。輪島の町からも克己役の小泉博や鮎子役の司葉子などのスターを一目見ようと、多くの人々が見物にでかけた。
 
忘却の花びらは昭和三十二年の正月映画として全国で封切りされた。
 
この映画によって、能登が観光面で大きくクローズアップされることになった。曽々木海岸はロケ地であったこともあり、奥能登観光のメッカとしていち早く脚光を浴びることになった。
 
「ぼつぼつ観光客が輪島の町にも見えるようになったな」
 
と、旅先から帰っていた忠右ェ門は、営業を担当している柳滋と話し合っていた。
 
旅から帰る毎に、わずかだが町の中を歩く観光客の姿が増えていた。
 
映画の力は絶大なもんだな、と忠右ェ門はひとりごとを言った。
 
昭和三十年代に入って、ようやく国内事情も落ち着きをみせてきた。株式会社稲忠漆器店もこの頃になって経営も落ち着き、社員も徐々にふえてきていた。
 
三重・岐阜を中心に、ときには関東方面にまで足をのばして販路を伸ばそうと、忠右ェ門は相変わらず忙しい毎日であった。あの苦しい時代に、祈るように期待していた輪島漆器の戦後の夜明けはまぎれもなくやってきていた。
 
<漆器の商いにも大きな変革が来そうだな>すれちがう観光客を横目に見ながら、忠右ェ門の脳裏にある予感が走った。日本の大衆旅行時代が目前に迫っていた。
 
昭和三十一年七月十六日。はじめて日本住宅公団が建てた賃貸しアパートが東京都にお目見えした。いわゆる2DKの間取りのアパートで、当時のサラリーマンの収入が一万五千円前後に対し、家賃が四千円というものであった。
 
その日、皮肉なことに輪島では、前夜から雷をともなった豪雨に見舞われ、洪水騒ぎという最悪の事態をむかえていた。
 
河川が急増水し新橋が流出した。水がどっと市街地にながれこみ、未曾有の水害となった。家屋の全壊八戸をはじめ、二千戸以上もの家に被害が及んだ。田畑、道路、橋梁、堤防などを含めて三十二億円以上の災害と報じられた。
 
稲忠漆器店も床の上三尺まで水があがり、家族社員が総出で一階にあった半製品や漆を二階に移した。家具や商品など運びきれないものも多く、一時のうちに大きな損害を被った。輪島の町のかなりの広い範囲で被災があり、あとかたずけをする町民のだれもが、信じられないことが起きたものだと、眉を曇らせていた。
 
稲忠では輪島の塗師屋の中でたった一軒だけ、木地工房をもっていた。おもに椀木地であった。水につかった加工前の木地は再度使用はできなかったが、漆で完全に塗りあげてあった製品は、丁重にぬるま湯で拭くと、もと通りの潤沢な肌が現れた。
 
せっかく仕事も軌道にのってきたところに、この洪水騒ぎであった。
 
「これでは何のために今日まで一生懸命働いてきたかわからない」
 
と、愚痴のひとつも言いたかったが、いやいや自分の所はまだこの程度で良かった方だ、と忠右ェ門は自分に言い聞かせ、また場所へ出かけるのであった。
 
昭和三十三年の春、一階に小さな店舗を構えた。漆器を求めて来る一般の人に対する店舗は、駅前通りなどに何軒かあったが、観光客の受け入れを中心に工場見学と、店舗を開設したのは、稲忠漆器店が初めてであった。
 
仕事をしながら店を見ていられるから、と始めた観光第一号の漆器売店であった。

稲忠 玉虫蒔絵


 

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