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輪島塗漆器 稲忠の世界

塗商五十年
-稲垣忠右ェ門の歩んだ道-

2章 塗師屋への道

2-4 三重で漆器外商、そして結婚

輪島で仕入れた漆器はおもに三重県で売った。かつて荒物問屋にいた時に、この地域はけっこう歩いたし品物も捌いた。だが、輪島塗の見本をもっていざ自分だけで外商してみると、なかなか思うようには売れなかった。
 
大正の後期から徐々におそってきた不況の波は、昭和に入ってさらに大きくなっていた。巴が輪島塗商として独立した時代は、完全に経済は下り坂であった。初めて巴が輪島の町に立った時に感じた暗さは、不況下の町のたたずまいを反映していたのであろう。
 
昭和四年の秋十月、世界の大恐慌の幕開きが、ニューヨークのウォール街でっきておろされた。『売り』『売り』『売り』の嵐の中で、株式市場は大暴落に見まわれ融界は絶望的な混乱をきたしたのである。不況は世界の隅々におよんでいった。
 
輪島塗の生産額も急減し、大正期の好調時に比べると昭和四年には半減状態まで冷え込んだ。その二年後の六年には三分の一ということろまで落ち込み、漆器に従事する職工四百八十名中、実に百三十三名が失業というありさまであった。
 
津市の阿漕(あこぎ)というところで納屋を借り、そこを寄留先にして付近をまわった。巴の出張拠点であった。そこに自転車を五台ほど用意して、付近の旅館や料亭を熱心に回った。
 
ここでは阿芸群美里村高座原出身の正岡隆夫・操という養蚕教師をしていた人と縁があった。漆器を買ってくれるばかりか、なにかと相談相手にもなってくれた。身体は大きいが物腰がゆったりとして、そして礼儀正しい巴はに、よくよくの好意をよせてくれた。
 
知らない土地で、その地域の有力者に見込まれた巴は幸運であった。
 
日本全土を覆う不況下であったが、少しずつお得意様も増えていた。
 
正岡氏をはじめ巴の人柄を評価してくれる人が何人かいて、巴は勇気づけられた。
 
付近の旅館や料亭、富豪の商家をまめに回った。商品は櫃で阿漕の寄留先に送ってもらっていた。その間あたらしい商品の仕入れや、細かな商談を行うために何度も巴は輪島へ足を運んだ。
 
また輪島塗の知識を充分身につける必要があった。場所先で巴は何度かお得意さんの質問に答えを窮することがあった。恥ずかしかった。輪島塗については一通りの知識をもっていなければ、この業界ではとても生きていけないと思った。
 
輪島に来るたびに、塗師屋の仕事場をみせてもらった。知らないことは何でも尋ねた。輪島では昔から自ら漆器の製造にあたる者が行商に出るということも知った。それであるならば、自分はいっそう塗物の知識を得なければならなかった。
 


 
昭和六年五月十五日、正岡隆夫・操ご夫婦の仲人で、将来森川の家を次ぐことになっていた菊池キクエと結婚した。正岡ご夫婦はキクエの親代わりでもあった。
 
巴は二十九歳、キクエは二十二歳であった。
 
「新婚旅行は両家の親戚まわりでした」
 
明治四十三年生まれで、やがて八十歳にも手のとどく稲忠漆芸堂の創業者稲垣忠右エ門夫人のキクエは、当時を思い起こしすらすらと話してくれた。
 
「主人の実家の上郷の稲垣医院にも行きました。兄嫁の秀さんも私にはたいへん親切にしてくれました。所帯をしっかり守ってほしいと、多額のお祝いもいただいたんです。主人と姉妹の嫁ぎ先である西尾の高橋宅や名古屋の遠藤宅にも、もちろん行きました。私の親戚はもちろんのこと、主人の親戚方もほんとうに喜んで迎えてくれ、励ましてくれました」
 
妻のキクエの家に生活を移した。しかし新婚生活だからといって、場所まわりを休むわけにはいかず巴は家を空けることが多かった。行商の宿命と割り切っていた。

稲忠 玉虫蒔絵


 

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